現代社会ではサイバー空間の出現により、情報過多による情報の散漫化、過剰消費、人間関係の希薄化が起こり、個人が得た情報は定着する間も無く、前提条件の方が先に変わってしまう。昨日まで正しかった事象が今日には否定されてしまうような流動的な社会では、生み出される芸術もまた、流動的にならざるを得ない。しかし、宝石のオパールやトルコ石が長い年月をかけて押し固められ、水分が少しずつ蒸発し生成されるように、過剰な情報もまた個人の中で押し固められ、ある一つの凝縮された価値観に結晶化するのではないか?これまで、「芸術で表現される『美』とは何か?」と言うテーマを中心に、超人類、生命技術、環境、人工美、ユートピア思想、増殖、さらには精神次元の風景までを縦横無尽に表現してきた。いまでは、これまで表現してきたすべてのシリーズが、自分の中で押し固められ、「美」がより単純で本質的なテーマとして凝固してきている。芸術の中でも人間が生み出す「美」の象徴としての装飾にのみスポットを当て、世界を構成する過剰な情報を全て均一に装飾し、その先に広がる自分の中の「美」を過剰に表現したとき、そこにはどのような「美」が存在するのか?過剰なまでの「美」の提示は、観る人にどのような「美」への物語を提示できるのであろうか?
1979 大阪生まれ
2007 慶応義塾大学入学
東京を拠点に活動